清水剛(東京大学総合文化研究科 国際社会科学専攻 教授)

[大阪貿易の設立についての説明があった。大阪貿易は日比両国で登記されており、相当に幅広く商品を扱っていた。ビールの他に、キッコーマン、蜂印葡萄酒。いまだに販売されている赤玉ポートワイン、明治ミルク、明治製菓、仁丹などである。また、1936年(昭和11年)刊行の渡邊薫『比律賓在留邦人商業発達史』の大阪バザーの広告を見てみると、味の素、野田醤油、運動具、薬などを扱っている。経営史から言うとこの映像は、商品がどのように使われていたかを明らかにする貴重な史料である。もう一つ興味深い点はバザーという経営形態である。カウンターでお金のやり取りをするというのは、つけ払いが通例だった同時代の日本では考えられない。(岡田 まとめ)]

村山英世(記録映画保存センター 理事)

 フィルムが入手したら、まず調査票を作ります。ただ、フィルムというものは、映写機にかけて初めて見ることができるものです。最近では16㍉映写機がなくなってしまったので、中身を見るにはデジタル化するということになります。
 フィリピンはアメリカの植民地だったので、コダックのフィルムが入ってきていたということです。フィルムはリールに巻かれ、紙箱に入っており、物理的な長さが100フィートで、撮影時間は三分ちょっとです。フィルムは、ナンバリングをし、外箱とリールの番号を合わせます。外箱が重要なのは撮影情報がメモ書してあるからです。①
 中には、フィルムが切れている場合もありますので、補修をしたりもします。また、カビやほこりがついているので、洗浄機にかけてクリーニングをします。次にデジタル化します。ただ、初めに解像度を決めておかなければなりません。テレビ放送は2Kというものですが、前回は予算の都合から1KのSDテレシネ(アナログ)でした。これが4Kのスキャナーです。4Kとか8Kだと変換費用はどんどん高くなります。例えば、映像の中に表札がありますが、これはSDでは読めませんが、4Kでしたら読めます。また画面にTCと呼ばれるタイムコードを入れます。TC番号があると場面を探すときに役立ちます。 
 デジタル撮影では、映像に日時が画面に記録されますが、フィルムでは記録されません。しかし、ある程度、分かることも分かります。このフィルムの紙箱に「Film 4、November 1930」と書いてあります。これはフィルムの使用期限です。② ですので、1929年~30年に撮られたフィルムでしょう。また、コダックフィルムの画面の端には、製造年を示すエッジコードと言われる△や×などの記号があります(右写真)。画面右にあるエッジコード+▲は1933年製造を意味します。この記号から制作年を推定できます。③
 また、画面の内容からある程度、場所や時期も分かります。大阪貿易のクリスマスセールの幕と左上の2階にスタジオの看板が見えます(右写真)。この画面にクリスマスセールの垂れ幕があるので、時期は12月でしょう。④ 
 このFilm 47は、スタジオで人物や商品を撮っています。大阪バザーがPR映画を作ろうとしたのではないかなと思います。Film 47の一部はプロが撮影しています。商品カット等はホームムービーのテイストとは大きくことなります。ただ、映画としては完成しなかったと推測しています。このフィルムはリバーサルフィルムで編集されて無い、オリジナルであることがわかります。
 この方は松井國吾郎さんです(右写真)。残されたパスポートの顔写真と一致します。パスポートに身長が書いてあります、180cmで大きい人でした。⑤
 撮影は松井清衛さんが大部分撮影をしています。
 日時、場所、人物の同定は①~⑤の情報を下に推測しますが、根拠のない箇所は入れていません。後で混乱しますので。
 松井家のフィルムは、全部で約4時間ほどです。現在、フィルムそのものは相模原市にある国立フィルムアーカイブで保管されており、室温は4℃で湿度40%のところに入っています。この状態であれば、モノクロ・フィルムはあと500年持つそうです。松井家のフィルムのように、保管が良い状態で残っているのは、珍しいです。松井家の蔵の一番上の一番湿度の低いところにあったからでしょう。これが戦前から現在まで、80年間、徐々にしか劣化しなかった理由です。

 

 

上山 久史(大日本除虫菊株式会社(金鳥) 取締役相談役)

 明治で文明開化が起きると、蚤取粉が入ってきます。除虫菊の粉末のことです。金鳥は1886年(明治19年)に除虫菊の種を入手し、除虫菊を栽培し始めます。しかし、日本では、蚤よりも蚊が問題でした。そこで蚤取粉を固めて棒状の線香にし、それを燃やしたところ、あら不思議、蚊がパタッと落ちて死にました。また、1897年(明治30年)年には、イギリス人ロナルド・ロスが、蚊がマラリアの病原であることをも発見し、1902年(明治35年)にノーベル賞を受賞します。その頃、金鳥も棒状の蚊取り線香を渦巻型に丸くし、40分から6時間燃え続けるように改良しました。
 1904年(明治37年)に日露戦争が起きると、中国東北部での衝突ですから、戦場には蚊はおらず、ノミとかシラミが病原菌を媒介しています。そこで蚤取粉が求められ、金鳥は蚤取粉を売ることで、最初に経営基盤を作りました。その頃、パナマ運河開通の工事が行われており、当初は労働者の4割がマラリアで倒れたので、蚊の駆除が求められてきました。
 ちょうど1907年(明治40年)には一番の輸入国であるアメリカに売り始め、1922年(大正11年)にはニューヨークにも支店を開設します。ただ、主力製品は蚊取り線香ではなく、除虫菊の乾花でした。除虫菊の花を油につけ、それを絞ると殺虫液ができるんです。日本でも売ることになり、それがキンチョールの元祖になりました。つまり、スプレーの殺虫剤ですね。ところが日米通商航海条約が1939年(昭和14年)に破棄され、日本はアメリカを敵と決めつけ、1941年(昭和16年)には第二次世界大戦が起きてしまいました。日本からの除虫菊製品が輸出できなくなりました。
 大阪バザーのPR商品はアズミのものですね。他の商品は大手のナショナルブランドが多いですから。他のナショナルブランドと同様に、同じくらい良い蚊取り線香を売っているよ、と主張しているように見えます。
 ちなみになぜ金鳥はフィリピンに行っていないのかという問いがあります。金鳥の戦前のパッケージですが、同じパッケージに英語、中国語、マレー語、タイ語で書かれています。アメリカの植民地のフィリピンでも使えます。ただ、中身は海外向けで、日本向けの6時間もつ高級品の半分の重さしかありませんでした。また、金鳥はプライベート・ブランドはしていません。
 他方、アズミさんはフィリピンでの弱点もあったと思います。彼らのマークはイノシシだったのですが、イスラーム教徒のいるミンダナオでは変えなければならなかったのではないでしょうか。だからパッケージがあんなシンプルなものになったのではないかなと思います。
 ただ、アズミさんは悲しい。金鳥より8年くらい後に、蚊取り線香に参入してきたのですが、海外にも進出しています。しかし、戦争中にアメリカの日本への空襲で、工場まで焼かれて、戦後には復興ができなかった。今でも、蚊取り線香をフィリピンではカトールと呼ばれています。それはアズミの蚊取り線香が大阪バザーで売られていたからですね。

山下弘太郎(キッコーマン国際食文化研究センター センター長)

[醤油の海外輸出は、17世紀半ばには東インド会社を介して、長崎を経由して行われている。おそらく京都の醤油だったと思われるが、その後大火もあり同地では醤油産業が衰退してしまった。明治になると、ハワイ移民向けの醤油の輸出があり、アジア・太平洋戦争期には現地生産もされるようになった。Film 47で興味深いのは、醤油の容器やラベルである。映像に出てくるビール瓶のような容器は、その当時の度量衡からしても、国内ではなかった。ラベルについては、野田醤油と書いてあるし、六角形のロゴも入っているので、キッコーマンのものであることが確認できる。またToyoとはフィリピンの醤油のことを指すので、この表現が入っていること自体が、現地の調味料として使ってほしかったという販売方針を表している。(岡田 まとめ)]

山根一洋(サッポロビール株式会社 広報部 ビール文化コミュニケーショングループ・プランニングディレクター)

 大日本麦酒は、1906年(明治39年)に、サッポロビール、アサヒビール、ヱビスビールそれぞれの前身が合併してできた会社です。基本方針が原料の国産化と商品輸出で、そもそも海外志向でした。国内で競争するよりも、団結して海外で販路を見つけようということで、どんどんアジアに進出していきました。スエズ運河以東で最大のビール会社になり、その当時の社長の馬越恭平は、東洋のビール王と呼ばれました。
 Film 47にあったリボン・シトロンについてです。1908年(明治41年)に、馬越がビール先進国であるアメリカとヨーロッパを行脚します。その中で、デンマークのツボルグというビール会社を訪問した際、この会社がビール醸造の副産物である炭酸ガスを回収し清涼飲料水を作っていることに目を付けました。早速、翌年の1909年(明治42年)には「リボンシトロン」の原型となる「シトロン」を発売します。柑橘系の香りのシトロンはヨーロッパのレモン水を参考にしたものです。当時日本にもラムネやサイダーはありましたが、ビール会社では製造していませんでした。シトロン登場以降は、各ビール会社がビールの炭酸ガスを利用し低原価で清涼飲料水を製造するようになりました。瓶の清涼飲料水はビールと同様に重量物ですが、ビールの流通網がそのまま活用できました。このように、ビール会社にとって清涼飲料水は、製造面、流通面ともにシナジーがありました。現在の日本の飲料業界大手には大手ビールメーカー系列の会社が名を連ねていますが、ここが原点です。ビジネスモデルはヨーロッパから持ってきた、ということです。
 1915年(大正4年)に「シトロン」は「リボンシトロン」になります。当時、シトロンの類似品がたくさん出てきたことから、社内公募で選定された「リボン」というブランド名を冠することとなりました。大日本麦酒の輸出が拡大していくのが第一次世界大戦以降です。戦争により、イギリス、ドイツ、オランダなどのヨーロッパビールのアジア市場への供給が途絶えたため、それを埋める形で大日本麦酒の販路が拡大していきました。そのなかで、リボンシトロンの輸出も拡大していったものと思われます。
 Film 47でビールの泡をなぜ立てるのかという点がありました。それもグラスから溢れ出るほどの勢いです。私の想像ですが、一つには当時のフィリピンにおいてビールというものの認知度が低かったのかな、と。泡が立つ飲みものということを示したかったので、わざと泡を立てたのではないでしょうか。もう一つは、輸送中の品質変化でビールが噴き出す問題です。当時はろ過技術が進んでいなかったので、瓶内に残存した酵母による発酵が進行し炭酸ガスが生成され、その結果、開栓時に噴きが生じていた可能性があります。これを不良品と思わせないために、この動画内ではわざと泡を立てるような注ぎ方をしたのかな、と思いました。あくまでも、想像ですけれども。
 
参考文献:
サッポロビール株式会社広報部社史編纂室編『サッポロビール120年史 : Since 1876』サッポロビール, 1996

佐藤慎吾(雪印メグミルク株式会社 広報IR部 広報グループ 課長)

 皆様のお話を伺っていると100年なんて短いな、と。当社は、1925年(大正14年)に北海道で産声を上げました。当時の社名は北海道製酪販売組合(翌年改名 通称酪連、北海道生酪販売組合連合会)ということで、酪農家が立ち上げた会社です。関東大震災後、援助物資だったこともあり、海外から安い乳製品が大量に入ってきます。そこで、国内の酪農家が苦境に陥ったという背景があります。
 当時の乳製品というとバターやミルクではなくて、練乳でした。普通に飲む牛乳もそんなに消費されていなかった時代です。1925年(大正14年)創業時にバターを初めて製造・販売、翌年には大量生産を開始します。当時としては画期的なレシピ本なんかも出したりして、バターとは何ぞやという問いと共に、消費者に使ってもらえるよう普及に取り組んでいました。 
 創業してから早々に海外進出をもくろんでいます。1927年~1931年(昭和2年~6年)にかけて、市場調査の目的で海外に行っています。中国、満州、台湾が中心になっています。1927年(昭和2年)ごろに大連方面に輸出をはじめまして、1931年(昭和6年)、満州事変の年、上海でバターの販売会の機会を利用して、少ないですが、23トンのバターを輸出しています。時期を同じくして、南洋市場に進出したということが社史の第1巻に書いてあります。
 Film 47を見て、どういう経路でフィリピンに入ったのかは、不明です。特約店の中にも大阪バザーの名前は確認できませんでした。当時国内でも缶バターは売られており、フィルムに出ていたものはまさに当社の製品です。このレシピ本の表紙にも缶バターが記載されています。
 現在は乳業界全体でも輸入こそすれ、輸出は稀なのですが、驚いたことに、1930年代、破竹の勢いで海外輸出をしておりました。ピークが1938年(昭和13年)で、バターの輸出量が590トンで、その後は先細っていきます。なぜこんなに積極的だったかというと、市場開拓ということよりも、酪農家から買い入れた生乳を確実に処理しなければならないからです。バターの国内需要が大きくないので、売り先を海外に見い出してきたということです。まあ、苦肉の策といえなくもありませんね。その文脈で、フィリピンに行ったということです。アメリカ人に受け入れられていたのかは分かりません。  
 当時、日本のバターがどういう評価を受けていたかというと、1935年(昭和10年)、ロンドンの英国国立検査所の検査を受けたところ、22か国バターを出品した中で4位でした。使用している塩に含まれるにがりが影響する風味について指摘がありましたが、総合的には高評価をいただきました。ブランドは雪印でしたが、当時は酪連という会社でやっておりました。他者さんになりますが、明治さんは、明治ブランドを使っておりましたが、極東練乳という名前でした。

有年義彦(アサヒプロマネジメント株式会社 サステナ推進部資料室)

 輸出していた全てを大阪バザーさんが窓口で受け入れていた、という記録があります。大阪バザーと大日本麦酒の関係を少し調べてみました。一つは、先ほどお話に出ました松井國吾郎さんは愛媛県の大洲市の出身です。のちに、大日本麦酒の社長になる高橋龍太郎も愛媛県出身です。内子町の出身です。二人とも1875年(明治8年)生まれです。ただ、二人の直接の関係は分かりませんでした。1937年にフィリピンにバリンタワック・ビール醸造株式会社というものが出来上がります。この時に、大日本麦酒が資本金の3分の1を出して、大阪バザーが6分の1を出しています。あとは、三井物産とかが出しているようです。
 ビールについてはラベルが映っており、これを調べてみました。全部で三つありました。本来の一番大きなものですが、このデザインは1908年(明治41年)から使っているものです。ネックレベルというものがあるのですが、アサヒビールと右側から書いてあり、宮内庁御用達大日本麦酒株式会社という風に書かれたものがありました。大日本ブリュワリーということで大日本麦酒のなかのアサヒビールということです。ブランドという形で売っていた、と。
 この下に、ネックラベルと反転し、ボトルラベルが映っていますが、ここをよく見ると、ひし形のようなものがあります。間違えなく三井物産のロゴでしょう。ビール会社の設立も三井物産さんと一緒にやっていましたし、三井物産さんが海外の中心的な窓口にもなっていましたから。
 グラスについても同様です。今では違和感がありますが、当時は同じの会社だったので、最初はアサヒビールのグラスで、後ではサッポロビールのグラスです。1947年まで一緒の会社だったということです。